その人の数だけ方法がある! 読書も一緒!
どうも、焦げまんじゅうです。
苦痛なく読書をするのは、人が紹介する型を妄信すると困難であると感じる今日この頃。
私も言われた通りのななめ読み速読法を試してみましたが……やっぱり撃沈。私は割とじっくり読み進めるのが性に合っているようです。
こんな感じで、人にも向き不向きって、あると思うんです。今回は、そんな話。
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型にはまった方法は、落伍者を量産するだけ
例えば儒教信仰が盛んだった古来の中国では、書を読むときに一種の作法のようなものがありました。それは……
一字一句余さず読んで、何度も読み返して内容を完全に暗記すること!
おおよそ今の日本における、速読と対をなす「正しい読書の姿勢」とやらと同じ感じですね。くだらん
日本における読書のお勉強も大概ですが、当時はこれこそが絶対とされ、暗記した1文をペラペラと出せない者は読書していないのと同じような感じだったとか何とか。
その結果、生み出された考え方が「学者は偉い! 技術者みたいなゴミとは違う!」みたいな考え方。
さすがに読書法が一定の方法だけに限定されてしまうと、その苦痛に耐えて見事学問を修められる人物は限られてきます。
本当はここに血筋や家柄なんかも重要視されて、そこで初めて力を認められるわけですが……ともあれ、そういう褒められる行いの中には、「何度も読んで暗記していく読書法」というものが必須項目であったと言われています。
そのため、知識でなく経験や手先の技術でお金を稼ぐ輩は、無学で卑賤な輩と見なされたわけですね。とある医者も「医術じゃなくて総合的な学問がしたい」とぼやいていた逸話なんかがあったりもして……とにかく、苦労して学を修めた分、人を馬鹿にしてもいいという流れが当時あったようです。
今の読書法の中で「正しい」とされているものも、それを信奉しすぎた結果、あるのは万一それができなかった時の落ちこぼれとしての劣等感と、正しい読書法を行わない、あるいは失敗した人間への差別意識といったもののに憑りつかれるというのは、実はよくある話なのです。
速読術に失敗した逆恨みも少量含まれていることは気にするな!
偉い人も言いました
「本なんてフィーリング。一字一句読むなんてダルい事しなくても、大まかな全体像つかめればOK」
こんな軽い言い回しではありませんが……上記のような儒教的読書法に対する、かの天才軍師・諸葛孔明のコメントです。
割と何でもできる天才肌の彼にとって、すでに全体像をつかんで「訴えたいことや真意」を理解してなお、暗記できるほどに一字一句読み続けるのは邪道以外のなんでもなかったわけですね。
で、そんな当時の正義ともいえる暗記式読書法に逆らった彼が、その後どうなったのかは……言わずもがなですね。
三国志でも特に国力の低い蜀の実質的な第一人者として政戦共に奮闘し、今なお、彼から見て外国である日本でも絶大な人気を誇る天才として名を馳せています。
かと思えば、孔明とは逆に「本は一字一句余さずじっくり読んで、10回くらい読み返してようやく意味を理解するんだ!」と熱弁した人物も、同じ三国志の時代にいたりします。
その人物もまた一流で(武官、つまり戦争専門でしたが)、頻発する反乱や諸外国の侵攻をことごとく鎮圧し、実に90歳以上という驚異の寿命を戦い抜き、戦いのたびに多大な功績を残しました。
逆に自身の読書法を確立できなかったあまりに、読んだはずの本をまるで理解できていなかったり、苦痛のあまり途中で投げ出してしまう人たちも大勢いますが……こちらは現在にいる人たちを見たほうが早いですね。
読書をあきらめた人たちは別に問題ありませんが……本の意味を理解できず、不適切な引用を濫用し教養をアピールする空虚な人たちは、過去から現代にいたるまで事欠きません。
何が言いたいかというと、結局は読書も他の方法も、その人に合ったやり方を目指すのが一番なんですね。
本を読むのに何が一番大事かというと、必ずしも書かれている言葉や表現を覚えることではありません。
その本の言いたいこと、伝えたいことを、ザックリと、一つまみでもいいので理解すること。これに限ります。
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変に読み方に囚われず、自分が楽な方法を!
結局のところ、一番大事なのはこれなんです。
形や方法を参考にするのは、たしかに大事なことかもしれません。が、そればかりを気にしすぎるあまり盲目的になってしまっては、楽しめなかったり意味を読み違えたりと、読書の良さを活かすことはできないでしょう。
あれこれ挑戦してみるのはいいことですが、ひとまずは楽しむことを主眼に置くのを、私はすすめします。
本だけに限った話ではないですが、やっぱりやる以上はワクワク感がないと損ですからね!