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【マキアヴェリ語録 政略編3】民衆と平等

 

 

 

平等か不平等か。この二択のうちどちらが素晴らしいかと言われると、だいたいの人は前者が素晴らしいものだと感じるでしょう。

 

しかし平等といえども、政治的な権力者の存在は必要。彼らによって、国の方向性が決まっていくのです。

 

 

今回はそんな平等社会における政治権力者の必要性や民衆の人気の得方について見ていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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平等社会の在り方

 

 

 

市民間に平等が存在しない国に共和制は成立しえず、存在する国に君主制は存在しえない。

 

 

これは個人的やり取りの際に出た言葉という事ですが……今回の根幹となるテーマなので抜粋。

 

 

端的に言うと、特権階級なるものは常時独裁を敷くからこそ必要なわけで、「皆が主人公!」みたいな制度を取っているような組織においてはぶっちゃけ邪魔です。

 

 

前回でも述べたように、あまりに力を持って権力を集中させ、個人的な支持を得ようとする輩の存在は、特に平等主義を破壊しかねない危険な存在。

 

絶対権力者に成り上がろうとする芽ですら潰さなければならないのに、能力も努力も必要なしに平等主義を破壊しえる存在がいるのでは論外と言えるでしょう。

 

 

 

為政者の必要性と危険性

 

 

 

為政者であろうと指導者と呼ばれようと、支配者の存在しない社会はあったためしがない。

 

 

さて、そんなこんなで平時に不平等が存在する……もとい、家柄や財産で人生のレールが決まるなら、初めから平等主義なんざ目指すべきでもないのですが……

 

非常事態、特に緊急を要する場合に、のんきに選挙だのみんなで合議だのをしている余裕はありません。

 

 

結局、平等主義といえどもみんな一緒というわけにはいかず、最高権力者による指導と方向の制定があってはじめて、民衆は進むべき道を決める事ができるというわけですね。

 

 

しかし、その権力は絶対的かつ長期的であっては厳しいでしょう。どれほどの聖人君子であっても我欲の道に引きずり落とします。

 

指導者に権力を与えてハイ終わり、では、国は利益だけを搾り取る悪政に苦しめられる未来に行きつきます。

 

 

大事なのは、

 

1.権力の範囲を取り決め、その範囲をしっかりと規定できること

 

2.一定期間に限って権力を与えること

 

 

ある者が恒久的、絶対的権力を握れば、その時点で国は腐り、民衆が苦しむ未来が確定してしまうのです。

 

 

 

まあ要するに、絶対権力者に対して目を光らせ、常にその立場をおびやかせるようにしておけってことだな。長期政権に対しては特に大事だ。

 

 

似たような顔触れや世襲での政治活動が続いた行く末は、自分の富や権力を得るために腐心する政治家の群れだ。

 

貧富の差や利権剥奪によって市民を隔離し、政敵も絶対権力の行使により排除。結果として民衆はどんどん貧しく、人権すらも認められなくなっていき、国家総奴隷として政治家の利益のために無償奉仕を続ける。意外とこういう例って歴史上にもあるんだよなあ


 

 

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民衆の特性と判断

 

 

民衆は大局的な判断ともなると誤りを犯しやすいが、個々の事になると、意外と的確な判断を下すものである。

 

 

要するに視点の違いですね。

 

例えば昨今では「企業の利益について考えて動け」などと言われることが多いですが……実際問題、本当の意味でこれができている人って何人いるでしょうか?

 

多くの日本人は組織の空気を把握して求められているポジションに就くというのはできますが、実際にそれがマーケティング的な意味合いでプラスになるかどうかは話は別です。

 

 

これと同じことが言えるのですね。普通の人の大半は、その場の空気を読んだり瞬間の自分の損得を考えたりは案外的確にできますが、それが国益とか全体の功利というマクロな話に広がっていくと、理解が追い付かなくなるのです。

 

 

つまりどういうことかというと、人に何かを訴えかけたり従わせたりするためには、総論や理論を語るよりも、直接的な利害や身近な事柄に分けて説明するとよいという事ですね。

 

 

人々は表面上でのものの見方をするものです。そのため、どんなものでも表面上はめちゃくちゃ得する素晴らしいものであると表現できれば、それだけで大半の人たちは騙せるものなのです。

 

 

 

これもまたマキアヴェリが述べてることだが……「もっとも高潔で評判の良い人物と同時に下劣で最低最悪な輩を出馬させると、下劣、悪辣な奴が選ばれることはない」と。

 

要するに、わかりやすい具体的な例や明らかな差があれば間違えることはない。だが総合利益とかを理論的に説くとわからん奴が山ほど出てくる。こういうことだな


 

 

 

民衆とは何ぞや

 

 

民衆は群れると大胆な行動に出るが、個人だと臆病な物である。

 

 

つまり、そういう事です。

 

多くの人はやはりコミュニティでも組織でも、とにかく群れに入りたがります。そして群れにいる間は、幾分か気が大きくなったりリスクを恐れなくなったりといった傾向が表れるものです。

 

この辺は、エニアグラムのタイプ6みたいな感じですね。

 

 

しかし、その群れと民衆の勇敢さがどう作用するかは指導者次第。

 

 

指導者のない民衆は、基本的に何をしでかすかわからない危さと集団として団結しきれない弱さを併せ持っています。

 

指導者のない民衆の危険性は明白です。というのも、主に分けるとこの3つ。

 

 

1.その場の損得で物を決める

 

2.見栄えの良さに騙される

 

3.軽薄で行き当たりばったり

 

 

何とも酷評以外に言いようのない評価ですが……実際に民衆主導による衆愚政治のよくある典型例がこれですね。

 

正義という言葉に振り回され、その場の損得に振り回され、結局のところ対局が見えていない。

 

 

 

これはちょっと私の持論になりますが……個々の知能が優れていても、人が平等の集団として大きくなればなるほど、その力を増す反面知力はどんどん落ちていきます。

 

要するに、どれだけ頭のいい人たちで集団をなしていても、決定者やリーダーがいなければどのみち行き当たりばったりで、その場の利益ばかりをむさぼる集団にしかならないと思うのです。

 

 

 

ま、所詮はサイト作成者の勝手な持論だけどな。

 

ただ、歴史家の多くも「民衆ほど軽薄で首尾一貫と程遠いものはない」とか、それに近い評論を残している。本当容赦ねえな


 

 

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マキアヴェリによる人民擁護論

 

 

 

マキアヴェリは、この醜悪な民衆論を出す上で、リヴィウスという紀元前の歴史家の言葉を題材にしています。上にある民衆の軽薄さも、リヴィウスの発した言葉。

 

そして最後には、「卑屈な奴隷か傲慢なご主人様か、この二択が民衆の本質である」とも言い捨てているほどです。

 

 

さすがのマキアヴェリも「ここまで言われると弁護は難しい」と話してはいますが……それでも民衆の擁護を試みてくれています。

 

まあ民衆や一般市民の醜悪さを罵るだけで終わるのも寝覚めが悪いので……最後にマキアヴェリの民衆擁護論を引用してこのページを締めたいと思います。

 

 

 

マキアヴェリは、「歴史家が酷評する民衆の愚劣さは、人間全体、というよりもそれらを取りまとめる指導者にこそ向けられるべき批判ではないか」と記しています。

 

 

後先考えずに暴走するのは指導者でも割とある失態であり、何も民衆であるから、庶民であるからどうこうという話ではありません。

 

結局、思慮の浅さと暴走は、その個人や身分の話ではなく、そもそも人として持ち合わせている罪。人間全体の醜悪さを階級特有の罪として語るのは、さすがに暴論です。

 

 

民衆の声は不思議な物で、中には未来すら言い当ててしまうものがあります。マキアヴェリは、この不思議な光景を「民の声は神の声」という言葉を引用して述懐しています。

 

また、判断力に関しても意外と的確な物があります。しっかりとわかりやすく提示してやれば、世論は正しい意見に味方するでしょう。それは、先述した通りの言葉ですね。

 

 

 

そして最後。「民衆は自分の利益がありそうならば、本当に有益な物より見栄えのいいものを選ぶ」という意見に関しても、「指導者も同じ欠点を抱えることはしばしばある」と反論。

 

しかも指導者の欲望は非常に大きく、それによる実害は民衆の暴走の何倍にも及びます。

 

 

つまりどういうことかというと、民衆や庶民がどうこうという話ではなく、民衆の欠点はすなわち人として持ち合わせている欠点であり、何も庶民ばかりが悪いわけではないという事ですね。

 

 

 

おっさんもこれには同意。

 

実際、集団による思考の摩耗だけじゃない。欲望に駆られて目が曇る例もしばしばある。下手すると、故意犯的に欲望だけを追いかけて国を破滅させる奴もいる。

 

そういうのを考えると、そもそも身分じゃなくて人間自体がそういうものだってことだわな



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