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【マキアヴェリ語録 人間編1】運命、力量、時代性

 

 

 

さて、今回からは参考書籍にしているマキアヴェリ語録の最終章である人間編。また君主論ベースに戻りますが……せっかくなので、政略論はじめ他の文献、文章からもいろいろと引用していきましょう。

 

 

今回の柱となるのは、君主論で主に述べられている以下の3つ。

 

 

運命、力量、時代性

 

それぞれマキアヴェリの祖国の読みに沿ってフォルトゥーナ、ヴィルトゥ、ネチェシタなどと書かれていますが……ややこしくなるのでその辺の読みは全スルーでやらせていただきます。

 

 

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運命と時代性

 

 

 

名声に輝く指導者たちの行為を詳細に検討すれば、彼らは皆、運命からは機会しか受けなかったことに気付くだろう。

 

 

要するに、偉大な指導者にのし上がるには、運が無ければダメという事ですね。運が悪い人間は、どれほどの力量を秘めていようと器相応の地位に立てることもありません。
しかし、マキアヴェリの言葉を借りるなら、運命によって与えられる機会というのは、いわゆる料理の材料のような物。与えられた当人たちの力量によって思い描く通りに調理ができなければ、上手く使うことができません。

 

 

つまり、力量がなければ与えられた機会も好機になどなり得ないし、どれほど力量があっても機会が与えられなければ意味がない。どちらが欠けていても、傑出した人物たり得ないのです。

 

 

 

おっさんの経験論では、報われた人間ほど力量と努力ばかりを説くようになり、逆に報われなきゃ運命ばかりを気にするようになる。

 

本当はどっちも大事なはずなんだが……だいたいの奴らは幸運、不幸、どっちにしても自分に都合がいいものを過大評価しやすい。あえて悪意的に言い表すなら、幸運は自分のおかげ、不幸は運命のせいって奴だな。

 

 

ま、それでも半分は正解なんだが……実際はどっちかが欠けると空振りだ


 

 

 

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運命の絶対的パワー

 

 

この世のすべては運と神の意志に左右されるという、古今東西支配的である考えには、私は反対というわけではない。

 

 

 

ぶっちゃけます。まず何より運です。何をするにしても、運が向かなければ無駄です。ここまであるべき姿について熱弁してきたマキアヴェリですら、「現代に生きてる以上こういう考えに与したい時もある」と語っていますね。

 

 

どれほど思慮を張り巡らせ、どれほど力をつけ、またどれほど対策を施しても、絶対的運命の前には無力。これが人々の根底にある絶対的観念であり、また残酷な世の真理でもあります。

 

ならば汗水たらして遮二無二頑張るよりも、いっそ運命に身を任せる方がいいのかもしれませんね。

 

 

 

運命は人を盲目に?

 

 

 

人は運命に乗る事は出来ても逆らうことはできないというのは、歴史上を見ても真理であると断言できる。

 

 

「運命は、自分の考えが中絶されるのを望まない場合、その人を盲目にしてしまう」とは、歴史家・リヴィウスの言葉ですが……マキアヴェリも、この意見には「これほど真理を射た言葉はない」と絶賛しています。

 

好調も逆境も、ある人には好機を恵み、またある人からはチャンスを取り上げてしまうもの。どれほど人生を謳歌しようが苦しもうが、結局は運命の与える境遇に浸っているにすぎないのです。

 

 

運命が改革を望むなら、それに合った人物、与えた機会を上手く使ってくれる人にチャンスを与えます。

 

反対に、破滅を望むなら相応の人物に破滅のきっかけをプレゼントしてしまうのです。

 

 

結局のところ、運命に従う事は出来ても逆らうことはできない。運命の糸を織り成すことができても、引きちぎってしまう事はできはしない。

 

 

ならば機会のない人間は絶望して破滅を待つしかないのかというと、そうでもない。

 

気まぐれな運命が何を考えているかがわからないのなら、DV家庭とクラスメートのいじめに翻弄され、ロクな場所に就職もできず社会からも排斥されて、いよいよ自殺するしかない瞬間にチャンスを置いていくこともあります。

 

 

運命というものの正体がわからない以上、死ぬ瞬間まで敵か味方かはわかりません。ならば、もはや打つ手のない逆境の中で諦めずにいることも、間違った態度ではないのです。

 

 

 

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運命の対・力量

 

 

 

しかし、我々の自由意志の炎はまったく消されてしまったわけではない。

 

 

結局人は運命に翻弄されるしかないわけですが、ならばそこに事由がないのかというと、決してそういうわけではありません。

 

運命が与えた機会を物にするために使う、力量。運命によって左右された人生の残り半分を、力量によって自分で操ることも可能なのです。

 

 

「運命は、力量の防備がない場所で、思う存分強大な力を発揮する」

 

 

逆を言えば、力量を発揮できる場所においては、運命による妨害の効力や成功率は下がっていく。これもまた絶対では決してありませんが……それでも、何の力量も貯えてこなかった場合よりははるかに思うままに動けることでしょう。

 

 

 

運命と力量の相関

 

 

力量に欠ける者の場合、運命はより強くその力を発揮する。

 

 

個人は当然、どれほどの集団であろうと、運命の気まぐれから逃れられる術はなく、容易に変転してしまうものです。

 

 

つまり、運すらも100%信頼するものではなく、自分の力で物事を切り開く、その力量が大事になります。要するに、運命が好き勝手介入するのを、他ならぬ自分の力で牽制、抑制するというわけですね。

 

運命が介入する確率を0にはできませんが、そうしないことには、100%すべての物事に運命が介入してきます。もし運命があなたの破滅を望んでいたのでは、力量無しではそれを防ぐ手段がないのです。

 

 

 

 

「運は制度を変える勇気を持たない者にはその裁定を変えようとしないし、天も自ら破滅を望む者には助けを与えない」。

 

まあ、結果どうこうってわけじゃないんだよな。

 

 

クソ忌々しい根性論の言葉を借りるなら、「できるかどうかでなく、やるかやらないか」。

 

こんなもんで結果がガラリと好転するはずもないが、どーせやらなきゃ破滅するなら、まあやるっきゃないわな


 

 

 

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第三の力、時代性

 

 

運命は変化するものである。それゆえ人間は、自分のやり方を貫いても時代に合致していれば成功するし、時代の流れに沿わなければ失敗するしかない。

 

 

 

力量と並んで運命による破滅を避ける要素のひとつが、時代性。つまり、時代や時勢とやり方がマッチしているかどうかですね。

 

 

世の中には、人格能力どちらにおいても他を圧倒しているのに、なぜか誰からも必要とされない人もいます。また、そんな人間が世に出て辣腕を振るおうという矢先に排斥される例も、歴史上では枚挙に暇がありません。

 

 

なぜこんなことが起こり得るのか……マキアヴェリは、その問いに「運命である」と述べています。つまり、しょーもない小悪党が幸せを謳歌するのも、有能な人格者が不遇のまま一生を終えるのもすべて運命。それは仕方のない事です。

 

 

しかし、ただ一つ、こんな運命によってすべてを無駄にされるのを避ける方法があります。それこそが、時代に合った生き方なのです。

 

 

 

 

しかしなぜに時代性?

 

 

 

名誉であれ富であれ、各自定めた目的に向かって、種々様々な生き方をするものだからである。

 

 

同じことをやっても結果が真逆になったり、真逆の方法で同じ結果にたどり着いたり……世の中には、こんな不可思議な事が多々あります。

 

マキアヴェリは、これらの不思議を、時代と合致しているか否かによる違いだと述べています。

 

 

やり方と時勢がマッチしている者は運命を味方につけて、逆に噛み合っていないとどれほど力量があろうと失敗するしかない。つまり、こういうことですね。

 

 

特に成功しているなら、その体験を得た方法から離れるのは勇気がいります。しかし、それを渋って慎重になり過ぎていては、いつしか時代に呑まれて消えていく。

 

果断に斬り捨てなければならないものをいつまでも大事に持っていれば、時代の流れに乗る事ができず破滅していくのです。

 

 

 

 

 

ちなみに、マキアヴェリは「あえて言うなら、慎重より果断である方がいい」と言っている。

 

おっさん的にはいまいちピンとこない例えだったが……「運命の女神は“女”神だから、冷静な人物よりも征服欲とギラギラした野心に身を任せる者に靡きやすい」とか何とか。

 

まあ、この辺はケースバイケースだが……なにか叶えたいものがあるなら、考えるだけでなく動いてみることも大事ってことかな。

 

当然「考えるよりまず動く」では、そもそも自分に合わなきゃ失敗あるのみだが、適度な行動力を保持するのは必要だろうさ



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