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【マキアヴェリ語録 人間編3】人間とは

 

 

 

マキアヴェリ語録もこれで最後……かな。

 

最後は、「人間とは何か」という話になっていますね。人間とは……民衆とは……。そんな言葉が、語録集の最後に続いています。

 

 

マキアヴェリが唱える人間とは何なのか。それをもって、マキアヴェリ語録の写し・解説を締めたいと思います。

 

 

 

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目先の獲物に気を取られ……

 

 

人間というものは、往々にして小さな鳥と同じように行動するものである。

 

 

この先には、「目の前の獲物に追われて危険に気づかない」という旨の言葉が続きます。これは、言ってしまえばマキアヴェリが唱える人間の真理にもっとも近しいものではないでしょうか。

 

民衆や普通の人は、目の前の真理や損得……つまり、ミクロな範囲で目に見えるものはしっかりと把握します。

 

しかし、それがマクロになり、一手二手先になり、目先の損得を超えた場所になり……といった具合で人の今いる位置から離れていくと、なかなか対処できません。

 

 

結果としてどうなるか……目の前の小さな得を追い求めて、その何倍もの損失、下手をすると破滅や絶望に自ら向かっていくこともままあります

 

 

合議の場においても、本当に有益な提案が受け入れられることは意外と少ないです。というのも、上記の通り目先のわかりやすい利益を提唱するほうがわかりやすく、その先にどれだけの危険があってもみんな納得してしまう……こういう事もあるのです。

 

 

 

 

おっさんもこれには同意せざるを得ん。

 

実際世の中見てると、長期視点でより良い利益を結んでくれるものを選ぶ奴は少ない。即効性、即物的、その場の損得。上から下まで、これで選ぶ奴がほとんどだわな。

 

 

ブラック企業なんかも、忠誠と能力を兼ね備えた人間よりも恐怖で押さえつけた人間を短期的に使いまわす道を選ぶあたり、こういう民衆的な考え方にあたるのだろうさ


 

 

 

危機に陥った人の信頼性はほぼ0

 

 

亡命中の人間の言葉を信じることは、多大な危険を伴わずにはすまない事である。
彼らの口にする信義や誓約は、反故同然と考えてもよいからだ。

 

 

これもまた、その場の短期利益を求める人の真理になりますね。

 

亡命中のように極端に追い詰められた場合、その人はまず何としても守ってくれる人を探します。そうしなければ、窮地を絶対に守れないからです。

 

 

なのでどれほどの条件であってもまず間違いなく呑んでくれるのですが……窮地に陥った側からすれば、そんなもの一時の危機を凌ぐための、あえて言うなら気の迷いのようなもの。

 

余裕さえできればまた都合のいい相手を探すこともできるため、そんな追い詰められて交わした約束など簡単に忘れてしまいます。

 

彼らの言葉を簡単に言ってしまえば、所詮は窮地を乗り切るために救助を引き出すためのもの。その場を切り抜けられたのならば、あとは恩人がどうなろうが知った事ではないのです。

 

 

その後彼らが約束を完全に保護するためこちらを無視するならまだマシ、下手をすると後ろめたさや不都合をかき消すために、こちらを滅ぼそうとしてくることも……

 

 

 

ま、この辺は相手が恩を感じてかつ、一定以上の義理堅さがあるかどうかで変わってくるな。

 

特に「コイツに逆らえば潰される」とこっちに対して畏怖の念を向けてくる奴相手に恩を売れば、向こうは想定と違う恩義に驚いてより気を良くしてくれるだろう。

 

 

ただしな……「人は恩恵を施された場合だけでなく、施した場合も義理を感じる」。

 

向こうの思惑に感づいても「面倒見てやったから……」といつまでも面倒見ちまうのは人間のサガだが、良いように利用されてるだけってケースには気を付けような


 

 

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人の気持ちは基本“保守”

 

 

 

人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないようにできている。

 

 

 

善に限らずだいたいそうですが……人は変化も自分の望みと違ったことも、必要に迫られない限り自分からはしないものです

 

そのため、法律が無ければ無秩序でバイオレンスな世紀末世界が形成されますし、やらなければとわかっていても、尻に火がつかないと行動しません。

 

 

何か大きな改革や変化に関しても然り。変わる事でどれほど有益であっても、そこに至るまでに少しでも困難があった場合……やはり多くの人は現状維持を望むようになっています。

 

 

 

そのため、大事業をやる際には、特に水面下でコソコソと動かないと、たちまち数手先の見えない批難に呑み込まれ、事業が立ち行かなくなります。

 

どれほどの良い事、どれほどみんなのためになる事であっても、多くの人は新しい事や必要を感じないことは絶対に受け入れない。これは、何かを立ち上げる上では覚えておくべきかもしれませんね。

 

 

 

 

 

勝ちに呑まれた者の醜さ

 

 

 

個人でも共同体でも同じことだが、人は勝利を得た後や、勝利の幻影を見たにすぎないケースであっても、人はしばしば尊大で横柄な言動に出るようになり、おかげで元も子もなくしてしまうものだ。

 

まったくもって嘆かわしい話だが、人間というのは権力を持てば持つほどそれを下手にしか使えなくなり、そのことでますます耐えがたい存在となるものである。

 

 

 

要するに、人間は明らかに格下と思った人間に対しては、それが事実であれ自分の勝手な妄想であれ、その人に対して横柄で尊大な態度をとるようになる、という事ですね。

 

他の言葉と並行して考えるに、これは「そうならないように気をつけなさい」ではなく、「必ずそうなる」という確信のようなものに感じます。

 

 

 

実際、人は見下す対象があれば落ち着きを取り戻し、それらを見下すことで己の優越感と自尊心を満たそうとする傾向があります。これは始めこそ「見下さなければやっていられない」という思いから始まるものですが、気付けば見下すことが当たり前になり、それそのものが生きがいになっていってしまうものなのです。

 

 

これは勝利にしても然り。例えば歴史上でも、戦争に勝って調子づいて逆に落としどころを失うこともしばしばで、こうなった後に形勢が逆転すれば目も当てられたものではありません。

 

 

現代でも勝手に優劣と勝敗で人を区分けし、劣った敗者に妙に強気に出る人物もいますが……基本的に彼らは、一生そうやって勝ち進んでいけると理由もなく確信した結果ああなる、という理由が考えられます。

 

 

誰だって望んで誤りを犯しているわけではない。ただ、良く晴れた次の日に雨が降る可能性を考慮できないのである。

 

 

勝って兜の緒を締めよ……ではありませんが、勝手な思い込みの優劣を「事実じゃん」とばかりに信奉せず、いつか敗北者側に回ることもしっかり考慮してから動きたいですね。

 

 

 

 

こうなるからこそ、いい気になって他人を侮辱したり脅しかけたりってのは下策だ。

 

侮辱と脅迫は、常に他人に最大の憎悪を植え付ける

 

 

「こんな奴に追い抜かれることなど絶対にありえない」なんてタカをくくって散々侮蔑すると、あとで痛い目を見るぞ。

 

言っとくが、こういう憎悪による敵対関係は、後で危なくなって土下座したり恩を売ったところで、ほぼ間違いなく解除不可能だ


 

 

 

 

最後に……

 

 

 

さて、人間とはという話題から少しずれますが……最後にマキアヴェリの教えから派生した、マキャベリズムの骨頂ともいえる文言を2つ紹介して、マキアヴェリの教えのまとめを終えようと思います。

 

 

我々が常に心がけておかなければならないのは、どうすればより実害が少なくて済むか、である。

 

天国に行くのにもっとも有効な方法は、地獄に行く方法を熟知することである。

 

 

 

マキャベリズムというのは、言ってしまえば「利益を受け損失を免れるためなら、どんなことでもすべきだ」という意味合いの、潔いほどの実利主義思想です。

 

まず最悪の札の切り方を知っておけば、最悪の事態は免れます。そして実害がない方法を選べば、動いた結果がマイナスになって帰ってくることもまずないでしょう。

 

 

最近では転じて「個人の栄達のためならば、他人をどこまでも蹴落として進む」という輩も信奉していますが……マキアヴェリが唱えているのはあくまで集団の実利、そして危険を避ける方法です。

 

その過程で汚い策略が必要ならば、きれいなフリしてやるべき時も出てくるでしょうが、必要ない場面では綺麗であることに越したことはありません。

 

 

そもそも、不用意に利益ばかりを狙って余計な敵を作らないこと。これはマキアヴェリの教えだけでなく、兵法、政治両方の著作物において大前提として語られています。

 

 

くれぐれも、自分一人が幸せになるために他人をすべて蹴落とす……なんて使い方をして、余計な敵を作らないようにしていきたいですね。

 

 


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