三十六計:第二十八計 上屋抽梯

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三十六計:第二十八計 上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)

 

 

言葉の意味

 

 

屋に上げて梯子を抽る

 

 

戦記の圧勝ネタによくある豪快な一本釣りですね。母屋の上に相手を上らせてから梯子を引っ込めてやれば、相手は母屋の上から下りられなくなります。要は、わかりやすく逃げ場のない囲地に追いやってしまう事で逃げ道をなくし、そのまま撃破したり降伏に追いやってしまうというわけです。

 

一方、同盟国相手に使う場合は……あの手この手で完全に乗せてしまい、こちらのペースで進む計画から下りられなくしてしまう……という解釈もできますね。

 

あるいは部下に対して使う場合は、まさしく背水の陣がこれにあたります。

 

 

とまあいろんな解釈の仕方がある言葉ですが……おおよそ逃げ場のない場所に追いやることで、敵であろうと味方であろうとこちらの思惑通りにしか動けないようにしてしまうという感じのニュアンスですね。

 

これを敵に使えば勝機を奪って一気に殲滅できますし、味方に使えば計画や作戦から下りるに下りられないような立場に追いやれる。なかなかに汎用性のある言葉です。

 

 

 

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要するに……

 

 

仮之以便 唆之使前 断其援応 陥之死地 遇毒 位不当也

 

之を仮るに便を以てし、之を唆して前ましめ、其の援応を断ち、之を死地に陥す。毒に遇うとは、位当たらざればなり。

 

文面的には、どうやら戦争で敵を罠に嵌めるのを意図して書かれたもののようですね。

 

 

毒をかっ食らう羽目になるのは、そうなるような場所にいるからである。つまり、利益をちらつかせて敵を騙し、自分から死地へと向かわせれば後はどのようにして勝つのも難しくありません。

 

だいたいどの兵法にも書かれていますが、敵をおびき寄せるためには、相手にとってプラスになるような何かを見せつけて誘い込むのは常套手段。例えば兵糧庫や武器庫のような急所であったり、陣形の穴になるような弱い部分なんかがそうですね。

 

戦いは、いかに相手の弱点を突いて戦うかが勝利のカギ。つまり、自分も相手も、弱点を突いて一気に勝負を終わらせたいと考えています。だからこそ、こういう作戦が有用になるわけです。

 

 

隙を突いて一気に勝負を決するのが正攻法ならば、当然ながらそれに対してわざと隙を見せて敵を釣り上げるカウンターも自然と有効戦術として磨かれていきます。上屋抽梯上屋抽梯の策は、そんな正攻法に対するカウンターを説いた戦法なのです。

 

 

 

とはいえ、上記のように敵を嵌めるだけでなく、方法次第ではいくらでも応用が利きます。

 

現代においては、例えば背水の陣としてこの策の応用を利かせる手段がありますね。要するに、部下を「もう後がない」という立場にあえて追いやることで、いよいよ仕事に対して本気にさせるような方法です。

 

これは競争を好む従業員が多い会社や部署でこそ活きる方法ですが……管理者やリーダーに対して「自分は上の立場だから安泰だ」と思わせないこと。もっと言えば、利益追求を前面に出して、個人の成長やキャリアアップの場として管理職を定め、厳格な評価制度を敷く……とかですかね。

 

終身雇用や好き嫌い人事からこういう実力主義に転換することで、組織は爆発力を発揮できることも少なくないのです。

 

 

 

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実例:沖田畷の戦い

 

 

 

さて、今回の実例は日本の戦国時代からピックアップ。1584年、九州でほぼ2強を争っていた島津と龍造寺の間で行われた沖田畷の戦いを見てみましょう。

 

もともと九州は島津、龍造寺の他に大友を含めた3強が勝って負けてを繰り返して3国鼎立の様相を見せていましたが、大友家が立て続けに戦争に負けたことで脱落。龍造寺家は乗りに乗って周囲の勢力を併呑し、島津家を圧迫していきました。

 

 

こうして両家が激しく争う中、龍造寺は島津と同盟を結んでいた島原一帯の有馬家の攻略に乗り出します。ここで同盟国を見捨てるわけにもいかなかった島津は、有馬に対して援軍を派遣。龍造寺と戦う事になったのです。

 

が、龍造寺が主力部隊の大軍を動員できたのに対し、島津は周辺勢力への備えに主力を避けず、戦いに動員できる兵力は龍造寺の4分の1ほど。とても真っ当な戦いでは勝ち目のない状況でした。

 

 

そこで、有馬家への援軍を率いていた島津家久は、とっておきの秘策を編み出します。それが、上屋抽梯ともいえる龍造寺の誘い出しでした。

 

島津は戦場を広大な沼地ばかりで道も細い沖田畷に決定し、龍造寺の大軍を迎撃。大軍でぬかるみを進みまともに陣形を維持できなくなっていた龍造寺軍と対峙し、そのまま偽装退却によって伏兵を仕掛けた地点に誘い込みを敢行します。

 

 

この作戦は、龍造寺軍がぬかるみに足をとられて混乱していたこともあり、見事に的中。大軍を活かしきれず退却もままならない一本道に釣られた龍造寺軍は、島津隊の伏兵による一斉射撃に算を乱し、またたく間に総崩れ。逃げるにも細い一本道は味方が詰まっており、沼地を進むにも足をとられている間に鉄砲の射撃で殺されるという大惨事だったそうな。

 

この戦いによって、龍造寺軍は主君である竜造寺隆信をはじめ多くの主要人物が戦死。龍造寺は島津に従属せざるを得ない立場に置かれ、後に豊臣秀吉が九州征伐に乗り出すまでは島津を止められる者が誰も現れませんでした。

 

 


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