三十六計:第三十二計 空城計(くうじょうけい)

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三十六計:第三十二計 空城計(くうじょうけい)

 

 

言葉の意味

 

 

空城の計

 

 

防戦一方で敵の勢いをどうしようもなく、劣勢を覆す策がなくなった時……あえて城を開け放って自分から不利な状況を作り、相手に「コイツは何を考えている?」と疑心暗鬼を植え付けてしまおうという作戦ですね。

 

もう豪快を通り越して100以外はすべて0くらいの分の悪い大博打ですが……本当にどうしようもないときは、こういう賭けも必要になるのです。

 

 

特に戦争のように最大限張り詰めた空気の中でふざけているようにしか見えない行動を取れば、あるいは真意を理解できない相手が勝手に混乱して自滅してしまうかもしれません。

 

しかもそんなふざけたことをしている人や軍団が、妙に自信満々で余裕すら感じられればなおのこと。

 

 

正攻法ではどうしようもない場面では、あえて隙だらけの状態や情報の漏洩をしてしまう事で逆にどうにかなってしまう。そんな摩訶不思議な事もあるのですね。

 

 

 

 

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要するに……

 

 

虚者虚之 疑中生疑 剛柔之際 奇而復奇

 

虚なる者は之を虚にし、疑中に疑を生ず。剛柔の際、奇にして復た奇なり

 

 

ダメなときはさらにダメにして見せて、敵を疑心暗鬼にしてしまう。戦力の優劣があまりに圧倒的な時にこそ、奇策と言えるトンデモな策略が生まれるのです。

 

空城の計というのは、ただでさえ劣勢なのに城門を開けて防御力ゼロの状態で敵を待ち構えるわけですから、まさしく奇策という言葉がしっくりくるでしょう

 

 

 

何をしてもダメなときはダメだし、どれだけ完璧な計画を用意しても運命の女神がそっぽを向けば全部がオジャン……なんてことも多々あるのがこの世界です。

 

そうなった時はどうするか……もはや「その場をどうにかする最良の作戦」を考え、成功率をある程度度外視して起死回生の賭けに挑むしかありません。

 

 

空城の計は、そんなにっちもさっちもいかずいよいよ滅ぼされるだけという状況に陥った時の、奇策という名の大博打なのです。

 

 

城をわざと開け放って堂々と振舞うことで、相手に「伏兵がいる」と勝手に勘違いさせることで不安にさせてやろうという、割と無茶な奇策も奇策です。

 

言ってしまえばなかばヤケクソの自爆特攻同然の策ですが……もし決まってしまうとその場の危機をうまく回避できるのです。

 

 

 

 

ま、実際は頼らないに越したことのない作戦だし、実例が書かれている文献もイマイチ信用できない出典がズラッと並ぶのがこの空城計なわけだが……絶望的な状況というのはどうにもならん。

 

どんな猛将でも絶望的な不利を覆すのは難しいし、天才軍師の知略をもってしても起死回生の絶対決まる作戦が都合よく思いつくわけがない。

 

 

そんな時は……もう無茶な作戦でも全力でやってみて、どうにかなるのを祈るしかない。

 

ただ、その場合でも最大限成功率が上がるようにしないとな。例えば空城計を本当に使うのなら、それこそ堂々としてないと相手に見透かされる


 

 

 

空城計が決まれば敵が帰ってくれるよ!

 

 

 

実例と言うにはあまりにアレ、というかぶっちゃけフィクションですが……空城計で有名なのは、やはり天才軍師と名高い諸葛亮(しょかつりょう)の策でしょうか。

 

諸葛亮はある時、自分がいた城に敵から襲撃を受けてしまったのです。

 

 

この時の敵の総数、20万。総大将はライバルと名高い天才の司馬懿(しばい)、数だけでなく将軍の質も圧倒的です。

 

対して諸葛亮の手元にいる兵力は1万ほど。いかに天才の諸葛亮と言えども、ほぼ互角の力を持つ将軍と20倍の兵力に攻められれば勝ち目など欠片ほどもなかったのです。

 

そこで諸葛亮がとった策は、なんと城門の解放。門をすべて開け放って防備も整えず悠然と構え、おまけに城壁の上で琴を奏で始めたのでした。

 

こんな摩訶不思議な光景を目の当たりにした司馬懿は、「こいつは何をやっているんだ」と唖然。最終的には「伏兵か何かがある」という判断を下し、全軍撤退を命じたのでした。

 

 

 

日本でも、徳川家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いで似たようなことが起こっていますね。

 

大敗北を喫した家康は、命からがら自分の本拠地である浜松城まで撤退。しかし部隊は壊滅状態、おまけに勢いに乗った武田軍がすくそこまで迫っています。当然ながらまともにぶつかれば城は陥落し、家康も討ち取られてしまうのは間違いないでしょう。

 

 

が、徳川軍はここであえて城門をすべて開き、おまけに松明を焚いて夜でもよくわかるように堂々と目印を作りました。さらには櫓の上からは陣太鼓をけたたましく鳴らし、「これでもか」というほどに浜松城の場所をアピールしたのです。

 

 

これを見た武田軍は、「伏兵がいるに違いない」と勝手に勘違いし、けっきょく浜松城は放置。おかげで家康の勢力はギリギリ滅亡を免れました。

 

 

 

まあいずれもフィクションですが……実際に決まると気持ちいいんだろうなぁ……

 

 

 

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人の知恵も作戦も万能ではない

 

 

 

さて、こういう奇策の話をすると決まって誰かが言い始めるのが、「天才ならどんな不利な状況でも絶対覆せるんだな」という慢心なわけで、次に「それなら天才以外を当てにしなきゃいいんだ」みたいな感じにつながるわけですが……大博打の空城計についてちょっと補足を入れさせていただきます。

 

 

そもそも空城計のような奇策は、自分から打つものではありません。それ以外に手は無いけどここで負けると死ぬしかないくらいに切羽詰まった状況に追い込まれて初めて使う事を考えるべき作戦です。

 

つまり、はじめから奇策に頼ったり「天才軍師がどうにかしてくれる」という考え方は捨てるべきで、これに頼り切った勢力は滅亡必至。この辺りは、どこかの企業が何の対策も立てず「有能な人材さえいれば……」とぼやくのに近いところがりますね。

 

 

奇策や天才頼りは、他にどうしようもなくなってから!

 

逃げても大丈夫な場面では逃げることを優先すべきですし、前準備でどうにかんる段階で奇策ばかり弄するのはなおさらアウトです。

 

 

奇策って、言ってしまえばヤケッパチの無謀な行動とまったく同じものなのです。それがたまたまその時に噛みあって上手く行ったから、後世から奇策であると賞賛されるのです。

 

当然、そんな奇策を思いつくだけの天才もまた同じ。たまたまどうしようもない状態になり、運よくそこに天才がいて、さらに幸運が続いて天才の無謀な作戦が上手く行っただけのことです。

 

 

そんな危険な橋、渡らなくて済むなら渡る必要はまったくありません。よほどのことがない限り、そんなミラクルに期待すべきではありません。

 

というわけで、まずは正攻法でどうにかなりそうなところまで物事を持っていくことを心がけましょう。これは、万事において言えることです。

 

 

 


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