【マキアヴェリ語録 政略編2】法と民政
国家を運営するなら、国民を統制するための法律と自由は必要不可欠。これがないと国は無法地帯になり、上手くまとめることも悪事を防ぐこともできなくなるでしょう。
この2つについては政略編でも言及されており、特に法律に関しては「不正込みの法律の方が、無法地帯よりマシ」「自由のない国は終わりだ」と言い切っているほどです。
もちろん国家でなくても、ある程度の集団を統制する立場であれば規則や決まりは必要になってきますし、自由やそれに代わる良さが無ければ不満は続出するでしょう。
一見相反する2つの要素ですが……今回は法律と自由の重要性を見ていきましょう。
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法律の重要性
法を尊重する秩序ある国家ならば、市民の行為における善悪を区別しないということはあり得ない。
要するに、信賞必罰というやつですね。いい事はいい、悪い事は悪い。事の善悪を明確に規定して周りにもしっかりと伝え、それに対する賞罰を実行する……というわけです。
例えどれほどの功績や名声を持った人物だろうと、罪は罪。これまでの功績や当人の名声を加味して悪行を罪に問わないという事があれば、少なからず国家は乱れます。
少なくとも功績を鼻にかけてつけあがった結果の罪であるなら、たちどころに暴走して規則も規範もぶち壊しになってしまうでしょう。
歴史上の例を見るとこの辺はケースバイケースではありますが……名君と呼ばれる君主は、基本的に賞罰は明白にし、功績があっても悪事には厳格に対処しているものです。
また、罪には罰を与えるのと同時に、賞与に関してもきっちりとしておかなければなりません。どれほど少ない褒賞しか出せなくても、「だったらいいか」とそれをケチっていたのでは、やはり信賞必罰は成されません。
秩序を築く上でもっとも大事なのは褒賞の大小ではなく、善行にはきちんと報いるという“報いの精神”なのです。
この辺は「部下への報酬は少なくしましょう」と解釈する人間も中にはいるが……考えてみてくれ。
極端な話、上場企業で行われる業績ナンバー1への特別賞与が、うまい棒1本だとしたら……そんなもんで社員は全員やる気が出るか?
ここで言ってんのは、褒賞はショボくてもいいというわけではなくて、どれほどショボいものしか出せなくても、善行にはしっかり報いろという意味だ。
ちなみにおっさんはガチで褒賞を駄菓子でごまかしてる企業を知ってるが、やっぱり社員は不満しか言ってないぞ
法は自分でしっかり守り、他人に厳しくし過ぎずに!
当然と言えば当然ですが、国家が定めた法を、国家が守らないのは死活問題です。
特に作った本人が「自分は例外」などと好き勝手法律を破るようなことがあれば、もう最悪ですね。
また、もう一つの危険なやり口は恐怖政治。
有能な人材ですら弾圧し、誰に対しても恐怖と強制力で無理やり縛り付けて刑罰を乱用する。これは有害を超えた危険行為であって、決して行ってはならないもののひとつです。
国民、市民、人々の安寧を確保せずに身の危険を感じさせてばかりいれば、やがて手を噛まれるのは道理です。
民衆は善政に浴している限り、自由など望みもしなければ求めもしないのである。
規則や罰則で統制するのも大事ですが、それ以前に目の前の仕事に安心して打ち込める環境を作ってやるのが一番大事。縛る事だけに囚われては駄目なのです。
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秩序と自由の相関性
なぜ人々の心に自由に生きる事への執着が芽生えるのか、という問いかけへの答えは簡単である。
歴史上、自由を持つ国だけが、領土を拡大し経済的にも豊かになったからである。
政治組織の個人利益に大衆が振り回されやすい国家が、自由国家となって大化けした例は多くあります。
マキアヴェリが例を出したものとして、王政から脱却したアテネや王政から共和制に移行したローマ帝国なんかがこれに当たりますね。
ここでいう自由とは、好き勝手という意味ではありません。
言ってしまえば全体主義的なものと言いますか……。個人利益ではなく全体利益、少数の反対や不利益があったとしても、公共や多数に利益があったらその施策を実行すべきというのがマキアヴェリの主張です。
厳格な身分制の害悪
これだけを見れば、マキアヴェリの思想は「みんなが従う決まりこそが正しい」の全体主義的思想にしか見えません。が、次にはそれだけでは不十分とも述べています。
古代では自由人だった者が、今では奴隷の生活しかできない。
マキアヴェリの発想は、どちらかというと血統主義的な考え方や、多数派万歳で少数を積極的に弾圧する考え方には否定的。あくまで全体の利益を追求しつつ、その過程で人々が自由に生きることを社会繁栄のカギとしています。
迫害や貧困の恐れがない自由な国家では、人々が結婚を避けて蓄財だけを考えるようなことがありません。自由に生きられるため、気楽に結婚して子供を生み、その子供が才能さえあれば上層部にも食い込める。
幸せになれる可能性が充分あるからこそ、人は努力し、養育にも力を入れ、次代へと繋がれていくことを期待できるのです。
当然、それらは「今は可能性がある社会だ!」と口に出すだけで実体が伴わないのでは意味がないぞ。
何事も二世三世ばかりがのさばる血統主義社会で自由国家なんて謳っても、説得力がない
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生かさず殺さず……
いにしえの歴史家たちはこう言っている。
「人は恵まれていなければ悩み、恵まれすぎれば退屈する。そしてこの方向性からまったく同じ結果が生まれる」と。
民政の極意は生かさず殺さず……とは徳川家康のマブダチ・本多正信の言葉ですが、この言葉はどの時代どの場所でも同じことが言えます。
人は得てして能力よりも遥かに高い望みを抱え、その望みのために、「もっと欲しい」「奪われてたまるか」と、奪い奪われの戦いが引き起こるものです。
そんなパイの奪い合いという地獄から解放されて自由になるために、マキアヴェリは清貧という言葉を使っています。
むしろ清貧が名誉ともなり、あばら家に住む人間でも人材登用のチャンスがあるなら、富を求めず蓄財のための罪悪も犯さず、結果として秩序をもたらすのに役立つのです。
とはいえ、明日も生きていけるか不安な状態をもって「健全な清貧」なんてぬかす奴がいたら、そいつは国にとってとんでもない害悪だな。「貧乏は権利」とか言って自分らの懐を増やす政治家なんて、よく暗殺されずに生きてるよな。ある意味スゲーよ。
「明日を生きるのも、月に1~2回くらいちょっと贅沢するのも問題ない。だが度を越した贅沢はできないし、退屈してよからぬ野心を持つほどの余裕はない」。
ここはおっさんの持論になるが、清貧ってのはこれくらいのさじ加減の事だと思うぜ。
これを崩した政治家は、さらに卑しい差別先をあてがって国民の目を逸らすほうに政策を転換させるのが歴史上の常だが……基本、滅ぶか危機を迎えるのがオチだわな
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平等社会にも潜む闇……?
共和国においても、民衆の行動に注意を怠ってはいけない。
マキアヴェリは、君主の有無で権力の分配や平等について考えが変わるとしています。
君主が実権を握る君主国では平等はあり得ないし、逆に共和国で不平等があるなら衰退の証です。
さて、その共和国の中にも、やはり指導者という名の支配者が必要。国を富ませ、今の体制を維持し、場合によっては変革する。これを為すには、やはり1人、あるいは少数を中心に国が取りまとまるようにしなければなりません。
ここで重要になってくるのは、共和国においての人民の行動。
独裁体制の下で組織転覆と自身の実権拡大を狙う輩に注意がいるのは、まあ当然のこと。しかし共和制においても、やはり自分の利益のために権威獲得を目指す人は出てきます。
一見きれいなお題目を並べ、権力強化や自分たちの利益拡大を狙う集団。これらもやはり、組織を転覆させかねない存在なのです。
もし彼らを排除できなければどうなるか……まず間違いなく、国は1人や少数政党の独裁に発展し、共和制とは真逆の方向に向かうでしょう。
その行動が組織のためか自分のためか。これをしっかりと見極めるためにも、多大な名声を得た人物の動向や動機には、しっかり注意を払っておかなければなりません。
彼らが名声を得た行動が公的利益に基づくものならば、逆に組織の得になる「鑑」ともいえる人物。他者を侵害させないよう注意さえしておけば、あとは逆に後押ししてしまうくらいでちょうどよいでしょう。
しかしこれがもし、人に金を貸してやったり便宜を図ってやったりといった、私的なやり取りによって得られたものであるなら……これは黒に近いと見てよいかもしれませんね
こういった人物は、自然と自身を中心とした党派を作り、みんなで取り決めたルールすら壊してしまう恐れがあります。
とはいえ、有能な人間を露骨に遠ざけてしまうのもまた危険なので……その場合は、こういった人間をうまくコントロールする仕組みを作り、ブレーキをかけなければなりません。
みんなで風通し良く自由にというのは、組織のおおきな魅力にもなり得ますが……トップの目線から見たらこんな落とし穴もあるのですね。